先週くらいのお題

今週のお題「大移動」

 

移動したと感じたことが大事だ。

距離の大小はそれを実感しやすくするための要素でしかない。

私が遠くに来たと感じる要素の1つに海がある。

 

複雑な理由などなく、ただ私の住んでいる街は海がないため、海を見ると距離の長さに関わらず遠くへ来たと感じる。

私にとって海とは世界の果てである。

生活圏に流れる小川の先

見果てぬ先にある空と水の境界線

潮の香りとさざなみ

浜辺に集められた砂と波

どれも私の生活からかけ離れたものである

 

職場の休憩時間に屋上から見えた海は綺麗だった。

今思えば全てが遠い世界の話のようだ。

 

先週くらいのお題

今週のお題「大発見」

 

生きる上で自分の笑顔は必須だということ。

 

私が世界を見やる時、何度美しいと思ったことか。

そしてこの美しき世界を共有する全ての人々が幸福であるよう思っている。

逆も然り。

私もこの美しき世界に生きる命として幸福でなければならない。

もっとも世界が美しいと感じることができる私という存在はすでに幸福であるのだが。

 

ここまでは自己完結でできる範囲。

 

問題は人間というのは社会的な動物らしいということ。

社会というよくわからん生活圏で活動する上で人間はコミュニケーションを取り合う。これがまた、凄く便利なのだが私は全くこれが使いこなせない。

なぜなら人が怖くて普通に喋れないので。

なんだこいつら。その存在が怖いて。

人間にとって私はコミュ障だの社会不適合者だのカオナシだの言われているような存在らしい。

ちっ…人が怖いから家に引きこもっている時が1番安心するだけだっつーの。

 

しかしこの美しき世界を共有するあなたにも幸福であってほしいと願わずにいられない。

私が「ア…」「ア…アァ…」「ゥス…」や「スンマセン…」「はい」などという貧弱な会話デッキしか持っていないせいで世界を共有する方に困惑を与えるわけにはいかない!

 

この人間社会の中で生きるものとして、巧みな話術を獲得して私の会話相手を楽しませる術を獲得できれば…

と思ったのだが。

無理だろ

だって人間怖いし。

 

だから対象をまず変えたんだ。

まず私から幸福になることにした。

今まで人間が怖いので、会話のデッキもふざけたものしか用意できなかったが…まず私が幸福になればいい。

私が会話を楽しめばいい。

そう、つまり受ける会話術。なんて凄い発想なんだ。特許取ったらお金すんごい貰えるんじゃないか?

話す時は自分が楽しく喋れればいい。少なくとも世界に生まれる悲しみは半分消えるのだから。

 

これで行ける

人間社会に馴染めない同志諸君

とりあえず自分が楽しんどけばダメージは半分カットされる。

 

あらゆる人が幸福であれ

先週くらいのお題

今週のお題「小さい春みつけた」

季節が巡る瞬間を私は匂いで判断している。

あまり共感を得られないが、春には春の匂いがする。冬には冬の匂いがする。

匂いで言うならば春の香りはまだしていない。

そう「小さい春をみつけてない」オワッタ。

 

それにしても季節の香りはいい。

 

しかし季節の香りとはなんだろう。

肺に入る空気の湿度や温度で判断しているのか、季節ごとに変わる植物の匂いやらなんやらで判断しているのだろうか。

以前、大型の商業施設にある空調設備の中に何かの用事で入ったことがあるが、季節は初夏にも関わらず空調設備内部は冬のように冷たく乾いた風が吹き荒れていた。

私はその風の匂いを冬の匂いとは思わなかったが、まるで冬が大きな箱の中で夏が過ぎるのを待っているかのようだと思ったことを覚えている。

その経験から考えるに、温度・湿度の匂いは季節を我々に印象付ける強い要因であるが、季節の遷移を印象付けたりしないのではないか。

 

私が季節の遷移の際に、例えば春の匂いがすると感じるあの体験は、やはり風が様々な春の動植物(もちろん人間の活動も含めて)の香りを運び私に届けてくれたために感じるのだろう。

 

届けてもらうのはとても嬉しいが、私はそれに対してできることはあまりない。春でも祝って花を見ながら散歩でもするか。

 

春の匂いはまだしていないのでお題の小さな春は私には見つけられていないのだが、それが感じられるのを楽しみにしようと思う。

今週のお題

今週のお題「卒業したいもの」

 

よくわからないことを言ったり考えたりすることをやめたい。

そしてできれば画一的なことを言ったり考えたりしたい。

 

普通であることを意識するのは、自分自身が集団から外れているという自覚の裏返しでもある。

私はその醜悪な自己陶酔に辟易することもあった。

 

その逆で、一般的に普通であることを意識することはごく自然でありふれた考え方であると考えたことがある。

普通などというものは我々が理解できるわけないので、みんなも実は自分自身が普通でないと不安に思うところがあるのかもしれない。

だから普通であることを望み、お互いの価値観の共通項を見つけて普通であることに安心したいのかも。

 

まとめると

私の普通でありたいという思いは一般的であり、それは自己陶酔ではなくただの思い上がりである。

END

 

 

 

 

ということを言いたいわけではない。

まず前提として私は人にとって有害なのだ。

私の発言は生きている人間にとって毒でしかない。

それにも関わらずよくわからないことを言ったり考えたりするのが問題だと思っているのだ。

ああ画一的で善良な言葉や思考だけになりたい。

今日は天気がいいですね♪みたいなどうぶつの森の住人のような言葉が心の底から言いたい。

世界の美しさを共有している生命が平穏であるよう思っていたい。

 

 

卒業シーズンだし、私もなんか卒業したい。

よくわかんない思想や発言など。

私自身がカスじゃなくなればいいのかもしれないが、それは不可能である。

とにかくもう私という存在は有害なので、害する可能性を少しでも少なくするために息を止めて生活を送り続けたい。

 

今週のお題

今週のお題「習慣にしたいこと・していること」

 

世間では年度末と呼ばれる時期に入ったらしい。

年度末というのは一つの区切りであり、何か新しいことを始める良い機会でもある。

お題の「習慣にしたいこと」について考える期間として3月は適しているのかもしれない。

 

 

3月の無理矢理神格化計画の完遂を記念して、お題の「習慣にしていること」も書き連ねていこうと思う。

 

 

習慣にしたいこと

ノートを作るようにしたい。

趣味でやっているゲームについてのノートだ。

アクションゲームならつまずいてしまった場所の攻略法であったり、対戦ゲームなら対戦相手の初見殺しや連携や行動の対応であったりを書いてまとめたいというだけだ。

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私は完全にフィーリングでゲームを遊んでいるため、学習や問題解決や改善に対して異様に怠惰である。

その結果、同じ場所で何度もやられるし、同じ失敗はありえないほど何度も繰り返すし、その記憶は当然全て忘れてしまう。

無限にタイピングをする猿として生きるのも大変面白いのだが(?)長いゲーム生活である。時にはゲームとの触れ合い方も変えてみるのも一興かと思い、ノート作成を考えているのである。

 

 

実は年末あたりからノート作成は考えているのだが、ゲーム自体への関心の低下や、私自身が究極の怠惰の化身であるなどの理由により、全く始められていないというのが実情である。

ペンもノートも学習するということも私から離れて久しいので、そういったものを懐かしむためにも始めたい。

 

 

習慣にしていること

これを読んでいる奇特な方がいらしたら、あなただけにおすすめしたいことがある。

 

散歩はいい。

とてもいい。

とにかくいい。

 

散歩は面白いだけでなく、ウォーキングという運動が我々にもたらす恩恵もついでに享受することができる。なんて素晴らしいんだ。

 

私は散歩を習慣的に行なっている。

嘘だ。

行なっていない。

私はもともと身体は良い方ではなく、加えて近年は引きこもり生活により体力が絶望的に低下しているため、散歩の頻度はかなり不定期になっているが、そんなことはどうでもいい。

 

1週間に1度でも、2週間に1度でも構わない。

もっと頻度が多くても構わない。

大事なのは頻度や運動なんかではなく、散歩が面白すぎるということだ。

 

見知った道を歩く時、肌で感じる陽光の暖かさ、肺に入る空気の香り、この目に映る動植物の営み、小川のせせらぎと人々の往来、流れる雲のなんと美しいことか。

そのような景色が見られる私もかくある。

そのことにたとえ様の無い喜びが感じられる。

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同じ道を歩いていても日々あらゆる全ては変化していて飽きはしない。時間の変化はあらゆるところで顔を覗かせているからだ。

散歩の楽しみ方も多岐にわたる。

諸行無常を感じたり、停滞して朽ちる自分を自嘲したり、何か思案に耽てみたり、健康のため歩くという行為そのものに熱中したり。

自分の好きなように楽しめるのもポイントだ。

 

知らない場所を歩くのもまた良いだろう。

新しい情報は常に刺激を提供し、散歩を豊かなものにするだろう。

しかし、同じ道を歩く散歩もまた尊いものである。

 

 

欠点があるとすれば、私の挙動不審と引きこもり特有の犯罪臭も合わさって、完全に変質者にしか見えない人間が徘徊することによる恐怖を人々に強いていることくらいか。

胸に⚠️全く怪しくありません!⚠️とかプリントされた洋服でも着て歩いたら恐怖を与えないだろうか?

 

以上、今週のお題「習慣にしたいこと・していること」でした。

今週のお題

今週のお題「ほろ苦い思い出」

 

陣馬山という山に登った日のことが真っ先に脳内をよぎった。

思い出を鮮明にするためにスマートフォンの写真フォルダを遡ると10年前の日付が書かれてあった。なんと無常なことか。

 

10年前の私は「ヤマノススメ」という登山アニメの影響を受けていた。

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ヤマノススメ、なんと素晴らしい作品なのだろう。登山について興味を持っていなかった私ですら引き込まれてしまう少女の友情の物語。

毎週ヤマノススメを視聴しては、まさしく人生も山の連続だな(?)という浅い感動を胸に抱き、友人らとヤマノススメの素晴らしさについて語り合うのが日課になっていた。

 

そんな日々の中で友人が魅力的な提案をした。

「山───行かね?」

ヤマノススメというアニメは出不精のオタクを動かすほどのパワーがあったらしい。数少ない友人からの誘いだ。私に断る理由などなかった。

 

最初の登山はヤマノススメの聖地でもある高尾山に行ったようだ。

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改修工事中の高尾山口駅

 

高尾山は素晴らしかった。

アニメの聖地巡礼と軽い観光ができる上に、健康体でなくとも登頂ができるという親切設計にオタクは感涙した。

 

そしてその成功体験はオタクに色気を出させた。

次の山は陣馬山で決まりだ。

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高尾山よりちょっと高くて、高尾山よりちょっと人が少なくて、高尾山よりちょっと山っぽいかな?というシンプルなステップアップとして選ばれた…わけではない。

オタク特有の斜に構えた思想が入って陣馬山が選ばれたわけでもない。

シンプルに私の体力的な問題を考慮して友人が選んでくれただけだった。

 

陣馬山を歩いている時、私が何を考えていたのか思い出せない。

ただ夢中だったのではないか。

普段とは異なる環境でリラックスするわけでも、山を構成する樹々の逞しさに感動するわけでも、動物や虫の息づく様を愛おしく思うわけでもなかった。

ひたすらに一歩を重ね山頂へ続く道を辿るという行為に夢中になっていたような気がする。

勿体無いではなく、少年が抜けきらぬ青年らしさを楽しんでいる、素敵な登山だったと今なら思える。

 

なんだかんだあって陣馬山の山頂へ辿り着いた私たちは、茶屋でお昼ご飯を食べることにした。

陣馬山といえば山菜蕎麦らしい。

そういうことなのでとにかく山菜蕎麦を頼んだ。

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慣れない登山で消耗した身体に優しい味が労わってくれたからなのか、登頂したという達成感からか、景色の良さからかはわからないが、たしかに絶品であった。

なにより山菜のほろ苦さが印象的だった。

 

そういえば帰り道、足が生まれたての子羊のようにプルプル震えて何もできなくなった。

ほろ苦く、輝かしい思い出の一つである。

 

 

 

 

 

 

苦い思い出ならたくさんあるのだが。

中学2年生くらいの頃、自分のこと折木奉太郎だと思い込む精神異常者で腕時計してる男の人に憧れて腕時計つけてたとか。